わが町 かながわ とっておき 文化・行事
神奈川区消防出初式
毎年1月横浜市民防災センター及び沢渡中央公園または、反町公園に防災機関や団体が集まり、式典や一斉放水等の演技、消防車両展示等を行い、防災力・防犯力の向上と区の安全を誓います。
かながわ区民まつり
10月に反町公園で行われる秋の恒例行事。自治会・町内会など、地域の人々が企画から運営まで手がけます。模擬店、物品販売、ステージイベント等が行われます。
笠䅣(かさのぎ)稲荷神社節分追儺式(ついなしき)
毎年2月節分に、年男・稚児・神社役員が氏子町内を練り歩きます。鳴り物を鳴らし、和歌を朗読し、除災招福の豆まきをします。市無形民俗文化財保護育成認定団体。
三宝寺(さんぽうじ)弁玉祭
4月28日に近い土曜日、幕末から明治初期に三宝寺住職・歌人として活躍した大熊弁玉を偲ぶ墓前祭。高島山公園に市登録文化財の弁玉歌碑があります。
ガーデン山
三ツ沢下町には、ガーデン山団地、ガーデン山商店街、ガーデン下バス停など、「ガーデン」という地名が残っています。大正初期、証券業を営む大沢幸次郎氏が、所有敷地に温室や動物小屋を建てて「横浜ガーデン」として一般公開したことに由来しています。
市登録文化財の鶴亀橋跡(ガーデン橋)にある寛永4年(西暦1627年)在銘の擬宝珠(ぎぼし)に名残を見ることができます。
浦島小学校の山下清画伯作品
山下清画伯が、近隣での展覧会開催の宣伝に浦島小学校を訪問し、油性ペンで描いたスケッチ画3点と、児童に囲まれて描いている写真が、校長室に飾られています。※一般公開無し。
子安小学校のステンドグラス
大正期の日本ステンドグラスのパイオニア小川三知氏の作品。本来は四段あったが、爆風で壊され短くなりました。昭和57年改築時に森勇三氏により修復されました。※一般公開無し。
浦島伝説
神奈川区に伝わっている伝説では、太郎は助けた亀に連れられて竜宮城で乙姫と暮らしますが、父母が恋しくなり、竜宮城から観音像と玉手箱を土産に故郷へ帰る途中で、父母がすでに亡くなっていることを知ります。その後、父母の葬られている墓がある武蔵国白幡の峰にたどり着き、墓を守りながら乙姫とともに人々の守護神になったとされています。
横浜マイスター
横浜マイスターは、地域の技能職者の代表として、後継者の育成、技能の継承等の活動を行います。
エディ今村氏は、日本の男性美容師の先駆けで、いち早くフランスで最新の美容技術を学びました。
宇佐美勉氏は、理容業界でレディースカットやメンズパーマ分野に挑戦し業界をリードしました。
ハマウィング(風力発電所)
平成19年3月に瑞穂ふ頭に完成。一番高いところで118m、平成22年度の発電量は223万kWhで、一般家庭の年間消費電力量およそ500世帯分に相当します。※ふ頭内一般立入禁止
子安神代神楽(横越政義社中)
神代神楽を伝承する三社中の一つ。江戸時代から続き、現在の元締の横越政義氏は17代目です。神社の祭礼にて神楽を奉納しています。市無形民俗文化財認定団体。
囃子こども教室
神大寺おはやし子ども教室は、神大寺囃子の継承のため、小・中・高校生が囃子・獅子舞を習い、日枝神社の祭礼等で披露しています。
菅田囃子保存こども教室は、菅田囃子の伝承のため、小・中学生が囃子・獅子舞、里神楽を習い、神明社(菅田町)の祭礼等で披露しています。
東海道 神奈川宿
神奈川の地は、鎌倉時代から神奈川湊があり、海上交通・貿易の要所として栄えていました。江戸時代に東海道が整備され、日本橋から三番目の宿場となる「東海道神奈川宿」ができました。これにより、東海道・神奈川道などの陸上の交通の要所としても賑わい、東海道有数の宿場として繁栄しました。
コラム -Column-
どんど焼き
1月14日に行う行事で、正月の門松や注連縄、お飾りを燃やす行事が行われています。また、書初めを燃やすことで、字をきれいに書けるようになることを願うそうです。
羽沢富士塚
区内の三つある富士塚のひとつ。羽沢富士塚は、慶皮2年(西暦1866年)に築造されたと言われています。こんもりとした山を登ると、御利益があるかも知れませんね。
羽沢スポーツ会館
地域の方に馴染みのある会館でスポーツ室、会議室があり、卓球、バレーボール、バスケットボール、ダンス、太極拳、音楽バンド演奏、地域の会合等に広く利用されています。
羽沢スポーツ会館陶辺
このエリアには、庚申塔・道祖神など、道筋に石塔物を散見することができます。羽沢スポーツ会館前にも、数基見ることができます。
写真の「双体道祖神(そうたいどうそじん)」は、菅田町入口バス停近くに立っています。
そっと寄り添っているお姿は、ほほえましいものです。
区内三つの富士塚
「羽沢富士塚」「中村富士塚(富士浅間)」「菅田富士塚」
区名「かながわ」の由来
その昔、区内を流れていた小さな流れを「上無川(かみなしがわ) 」といっていました。
それは、いつも水が涸れてほんの少ししか流れていない。水源地もどこかわからないので、「上(かみ)なし川」と呼ばれていました。それがいつしか「み」「し」の二字を略して「かな川」をいうようになったという話があります。
※諸説あります。